2018年5月現在の「宮坂国人広場」には、入植当時に設置された拓殖碑が今も鎮座している。
ここでは、その周囲にある記念碑(宮坂国人像、笠松尚一像、拓殖慰霊碑)と共に、拓殖碑を紹介する。
ラ・コルメナの拓殖記念碑は、入植1年以内、遅くとも第一回入植際が行われる1937年6月29日(▲ラ・コルメナ二十周年史P.4日沖剛)までには、中央広場に設置されていたようである。
初代拓殖碑についての公式な記録は残っていないが、初期入植者の一人である鈴木勝夫氏の自分史『懐古六十七年思い出ずるままに(自分史)』(2003年5月6日)P.23PaL1-P.24L3に、次のような記述が残っている。
「(・・・)今の農協前が中央公園で、あそこに笠松さんたちが元標を打ち込んでコルメナの基点として道路やロッテ(注釈:移住者のために用意される、区画された土地)割りをした場所で、最初あそこに記念碑(木製の二メートルばかり)を建てて第一回、第二回の入植祭を行った。日本の戦勝祈願や、旱天の時は雨乞いの祈願をやった。戦勝祈願では皇居に向って東天遥拝だった。」
現存のものは、1942年2月に完成(▲ラ・コルメナ二十周年史P.12日沖剛)した。先代のものとは違い、全て石製である。
『懐古六十七年思い出ずるままに(自分史)』(2003年5月6日)P.24Pa2より、その経緯を引用する。
「 現在の記念碑を建てた頃の思い出。あの台石は二キロメートルばかり離れたジャハベツのカンポ(注釈:畑/田舎の方)から掘り出した石で、運搬が当時だからトラックも無し、材木運搬用のカレッタ(注釈:牛車)にも吊り下げられず、飯原さんが中心になって大きな橇(注釈:そり)を作り、それに上げて縛って、丸太を何本も揃えてコロにして、長いロープで家長総出でヨイショヨイショと酒を飲み乍らあそこまで引張って来たのだ。(…)上の碑文の入った石は平ったいので牛車に吊り下げて運び、亡き岡さんや笠松さんでチェンブロックを使って建てたのだった。」
2018年5月現在まで、5月15日の入植記念日には、必ずこの拓殖碑前で慰霊祭が行われている。
同宮坂国人広場には、
1.ブラジル拓殖組合専務宮坂国人氏像(1959年立)
2.開拓功労者の一人(測量士)笠松尚一氏像(2006年立)
3.入植35周年記念に設立された拓殖慰霊碑(1971年立)
が佇立している。
備考:
(※)木製の拓殖記念碑碑への参拝年度について
▲パラグアイ日本人移住五十年史P.181左最上の写真には、「入植10周年 開拓の成功を拓植碑に誓う」とある。
しかしながら1942年には石製の拓殖記念碑が完成しており、入植10年、つまり1946年に木製の拓殖碑に参拝することは不自然である。
木製と石製の拓殖碑がどちらも存在していた可能性はあるが、新規拓殖碑が完成した時点で古いものは撤去または新規のものに参拝することが自然とみなすなら、当該史料の年代表記に誤りがある可能性が高い。