「パラグアイ日系人の母」

 

    アグスティーナ・ミランダ・ゴンサレス


略歴

 アグスティーナ・ミランダは1916年12月16日、パラグアリ県イビチミ(ウブトゥミ)に生を受けた。

 

 青年期は当時アスンシオンーエンカルナシオン間を走っていた汽車に乗り込み売り子の手伝いをする傍ら、アスンシオン師範学校で学んだ。

 

 学校は1940年に卒業、翌41年3月10日より初期のラ・コルメナ日本語小学校のパラグアイ側教員として赴任していたことになっている(当時はパラグアイ国教育を受けさせることが義務付けられており、日本語教育はその副次教科という位置づけであった)。

 しかしながら1939年ごろには学校関係者を撮影した写真に登場しており、師範学校卒業以前からコルメナ移住地と交流があったことが推測できる。

 

 1943年日本語学校とは別に設置されていたラ・コルメナ(低学年)小学校の校長となり、1945年8月~9月に日本語小学校に関する施設が没収され、翌2月に改めてパラグアイ小学校(「ラ・コルメナ第128小学校」)が開校した後も同じく校長を務めた。

 

以後ミランダ女史は政治の世界に身を移す。

 1951年にはアスンシオンの大統領官房にて、一公務員として勤務するようになる。勤務期間中は、経済協力名誉協議会の理事など情報文化庁での要職についていたようだ。

 1967年7月12日の朝日新聞夕刊では、彼女が大統領官房副長官、赤党(国民協和協会 Asociación Nacional Republicana)

副総裁等を兼任していると報道している。     

 1971年には地方の開発促進委員会(デレガシオン・ペルマネンテ)幹事に就任した。

 1977年~89年には、「Secretaria General y Gabinete Civil」(事務総局及び市民内閣。大統領官房内の一部署) を一時務めた。

 

 1989年2月のクーデター及びストロエスネル政権崩壊を機に自ら政治から離れ、以後2005年7月30日土曜日に逝去するまで、静かにその余生を過ごした。

若年時のミランダ女史(右端)
若年時のミランダ女史(右端)
1973年7月18日 農協25周年祭記念植樹時。人物の詳細は備考参照
1973年7月18日 農協25周年祭記念植樹時。人物の詳細は備考参照


日系社会への貢献

 ラ・コルメナの事情に詳しいアグスティーナ・ミランダ女史は、政府要人として、別記アルフレド・ストロエスネル統領と共にラ・コルメナをはじめとしたパラグアイ日系社会に対して、様々な功績を遺した、と言われる。

 

 例えば1945年日本語学校が没収された際には、馬と汽車を乗り継ぎ、アスンシオンの関係省庁長官に直接、日本語教育に対する許可を求めた、という逸話が残っている。

 この直訴により、非公式ながら日本語教育が黙認されたのだという。

 

 また1963年5月24日には日本・パラグアイ間の友好関係を促進するため、ミランダ女史が中心となって「パラグアイ日本協会」を設立した。この協会は当初多数のパラグアイ政治家を巻き込んで設立されており、政治的な対日関係の窓口として重要な役割を見込まれていた。

 

 日本にも政務で来訪し、その際にはこれらの貢献を称えられ、1966年には勲三等瑞宝章を、1982年には勲三等宝冠章を受賞している。

 

 その他にも、ラ・コルメナ移住地に政治的な便宜が必要な時には常時積極的に協力をしていたとのことである。

 しかしながらその詳細は一般閲覧できるような文献資料としては記述されておらず、本人も自伝や手記を遺さなかったようである。

 

自ら着物を着て日本人の催しに出ることもあった。
自ら着物を着て日本人の催しに出ることもあった。


現存する生前の軌跡

 1972年にラ・コルメナに中・高等学校が建設される。

 うち高等学校はそれまでのミランダ女史の功績をたたえ、「アグスティーナ・ミランダ・ゴンサレス国立高等学校」の名を冠している。尚、中学校は1975年に小学校と合併し「パラグアイ日本学校」(Escuela Básica No° 128 Paraguay Japon)と改称した。

 

 ミランダ女史が逝去した後、ラ・コルメナには生前のミランダ女史の家屋を利用した資料館が設立された。この資料館は2018年5月現在、市街地内の大学構内に併設されている。

 

 2006年5月15日には、中央広場にミランダ女史の像が設立され、除幕式が行われた。




 

 

備考:

(※)農協25周年記念植樹写真内の人物

・アグスティーナ・ミランダ・ゴンサレス(左から2人目)

・エルナンド・ベルトーニ農牧大臣(左から3人目)

・ホセ・アマリージャ・フィリップス協同組合総務局局長(右から2人目)

・森谷不二男氏(右端)

・土を掘っている人物は、当時の在パラグアイの日本国特命全権大使 種谷清三氏