現在への軌跡1:ラ・コルメナ農協の発展

資金・施設もなく発足したラ・コルメナ農業協同組合は、まずは綿花・ブドウ酒「コルメニータ」を中心に、以後は時節に沿ってさまざまな新商品を導入しつつ、販売を急速に拡大し、劇的な成長を遂げることとなる。

 

ここでは、その発展の経緯を簡単に記述していくことにする。

 

 

・発展の概観

・導入作物・販売所

・現状


発展の概観

 ラ・コルメナ農業協同組合は、1948年7月18日に文字通り無手の状態で創立された。

 創立総会の賓客送迎代で出資金が即座に赤字になり、事務所は存在しないためパラ拓支配人日沖剛氏宅の一室を借りなければならない有様であった。

 

 この状況を打破すべく、ラ・コルメナ農協は、事務所等の施設、融資を受けるための銀行出張所、輸送方法の獲得に着手した。

 

 事務所や精米所等の施設は、日沖氏の多大な好意により無償あるいは格安で数年のうちに譲渡された。

 

 森谷不二男氏が関係省庁にお百度参りを行った結果、1948年内には国立勧業銀行のラ・コルメナ支所が開設された。1949年2月、出荷用トラックが同銀行の融資により購入された。

 

 農協最初期は無手故に、即座にラ・コルメナ移住地の厳しい現状やそれに連なる退植を留められたわけではない。

 しかしながら農協創設から10年経過しないうちに、退植数は顕著に低減している。移住者が落ち着いて生活できる程度に状況が回復したということであろう。

 

 

 1973年7月18日の創設25周年記念式典にて、ラ・コルメナ農協は農牧大臣賞、協同組合総局長賞、綿花煙草検査統制局長賞を受けた。

 1985年12月には、スペインのマドリード市において、イベロアメリカ優秀イメージメーカー賞を受賞した。

  1988年9月15日の創設40周年記念式典では、25周年時から継続して農牧大臣を務めていたエルナンド・ベルトーニ氏より国家協同組合運動への寄与を称えた表彰状がコルメナ農協に送られた。

 

 これらの受賞からわかるように、初期以後の農協は発展を続け、その功績はパラグアイ全土に広く認められることとなったのである。

歴代の農協事務所(詳しくは画像をクリック)

1964年頃には農業機械を導入できるまでに移住地の状況が改善された。
1964年頃には農業機械を導入できるまでに移住地の状況が改善された。


導入作物・販売所

■導入作物・販売所

 農協設立までの主要産物は、綿花及び穀物類であった。

 これに加え、コルメナ農協は事業計画の主軸としてブドウ酒醸造事業を立て、組合員にもブドウ栽培を奨励した。

 1957年1月にはアスンシオンに販売所を開設し、このブドウ酒を中心に直接顧客に商品を届けることができるようになった。

 こうして、綿花、穀物類、そしてブドウ酒が1981年ごろまで主流商品となった。最大で、年75万リットルを超える生産量であった(第36年度。▲ラ・コルメナ農協四十年史P.47表)

 

 1965年にラ・コルメナ~アカアイ間約32kmの土製自動車道路が完成する。これにより悪天候時を除き数時間での輸送が可能となったため、玉ねぎ、ジャガイモを中心に、蔬菜の搬出ができるようになった。

 

 1970年代からは、生果用の果樹栽培も盛んになる。このとき外部支援によって蜂蜜生産と養蚕事業が導入されたが、養蚕事業は1983年の買い上げ工場閉鎖とともに終了し、蜂蜜生産は現在数件が扱う程度に縮小している。

 

 尚 ラ・コルメナ農業協同組合は1972年の協同組合法改正を期に、定款を修正。その後1973年3月28日付大統領令で「ラ・コルメナ農産業協同組合」(Sociedad Cooperativa Agro-Ind. La Colmena Ltda.)と正式に改称した。

時代により変化する主力商品(詳しくは画像をクリック)



農協の地域貢献

 ラ・コルメナが市に昇格し、市役所を置くのは1970年終盤のことである。移住者に関する管理運営はラ・コルメナ文化協会が担っていた一方、投資を必要とする地域全体の開発事業に関しては農協が積極的にかかわっていた。

 

 その範囲は、1948年の勧業銀行コルメナ支店開設からはじまり、道路建設・維持、電話架設、水道整備、農村電化事業に及んだ。

 1980年から数年もするとこれらのインフラは全て一通り整えられ、主要な道路も大部分舗装された。

 1990年代には市街地水道の完成、電話ダイヤル自動化、幹線道路のアスファルト化が達成。1992年には水源地からの灌漑施設が完成した。

 

 

 現在はラ・コルメナパラグアイ日本文化協会の所属である婦人会(通称は婦人部)も、1963年7月14日の発足から1986年4月まで「ラ・コルメナ農協婦人会」(▲ラ・コルメナ農協四十年史P.54など)であった。

農協婦人部。日系農業協同組合中央会30年のあゆみP.66より
農協婦人部。日系農業協同組合中央会30年のあゆみP.66より


現状

 ブドウ酒をはじめとした加工品の販売は徐々に低減し、1981年からは野菜、果物の販売が主流(50%以上)となっていった。更に2012年ごろの時点で95%を占めるようになっている(※)。

 

 2004年には組合員数の低減等諸々の理由により、アスンシオンの日系農協「アスンセーナ園芸協同組合」と合併、コルメナ・アスンセーナ農産業協同組合(Cooperativa Agro Industrial Colmena Asuncena Limitada 通称C.A.I.C.A)となり、主にアスンシオン中央卸売市場内に設置された販売所に向けて作物の出荷を行っている。




 

 

備考:

(※)農協事務所の写真引用元及び備考

初代事務所   ▲ラ・コルメナ農協四十年史P.35

 該当部には「1948年農協発足当時の事務所兼購買所」とあるが、誤りの可能性がある。

 たとえば▲ラ・コルメナ農協拾五年の歩みP.57Pa3では、「其の当時、パラ拓移住地管理事務所及び商品販売所はパラ拓の直轄により執務中であつたので、

 農協は取り敢えず日沖支配人の住宅の一部を借受けて(…)」とある。

 更に▲ラ・コルメナ農協四十年史P.34LL1森谷不二男氏によると、「(…)1949年4月6日、パラ拓が経営していた商店部をラ・コルメナ農協に譲渡する交渉が成立して、

 在庫商品を農協が全部買い上げて、建物は処理譲渡する約束で当分借家する契約が成立した。購買部建物の後部に21平方米増築して農協の事務所に使用した」。

 

 1948年7月18日より起算して、一定の期間は個人宅を借受けて、かつ元パラ拓商店部の増築を完了するまでには、年度が変わっている可能性が少なくない。

 また記載の詳細度からも鑑みて、ここでは便宜的に初代事務所の開設は1949年としたい。

 

2代目事務所 ▲パラグアイ日本人移住五十年史P.180

 該当部には「ラ・コルメナ創立当時のパラグアイ拓植事務所。1938年建造」という記載がある。

 しかしながらパラ拓事務所の入り口表口、裏口どちらも四角形の門・扉の形状をしており、写真と異なる。

 そのため、史料の該当箇所の記載は誤りであると思われる。

 

(※)養蚕の写真引用元及び撮影時期・内容の参照元

▲パラグアイ日本人移住70年誌P.103

 

(※)初代販売所外観の写真引用元及び販売所長について

引用元:▲ラ・コルメナ農協拾五年の歩みP.71

 1957年1月の開設時、初代所長として第2次農協設立運動の発起人酒井好太郎が就任した。

 1958年内には、第1回移住者の奈良米蔵氏が所長となり、 1977(8)年まで奥方と一緒に運営にあたった。奈良氏や石井道輝氏や酒井好太郎氏などは、同じ崎山比佐衛氏の「海外植民学校」の同窓生であった。

 以後販売所が閉鎖する2002年までは、日系2世の前田ホルヘ氏が販売所長を務めた。

 

奈良米蔵氏の所長時期のブレ:

1977年まで=▲日系農業協同組合中央会30年のあゆみP.68右Pa2L8(1977年

1978年まで=▲ラ・コルメナ農協四十年史P.38Pa4L1

 

(※)農協の2010年頃の売り上げ比率について

▲日系農業協同組合中央会30年のあゆみP.73左PaL8(2012年3月31日発行)

「(…)1981年より野菜、果実の販売が、50%以上を占めるようになり、現在は95%となっている。」