現在への軌跡2:文化協会の設立と発展

ラ・コルメナ移住者の経済的中枢が農(産)業協同組合にあったとするなら、戦後自治に関する中枢は文化協会にあった。

ラ・コルメナの文化協会は、文化的側面に加え、移住者統治全般に関する政治的な能力を付与されてもいた。

 

ゆえにここでは、文化協会が担う文化・統治の2つの側面両方に焦点を当てつつ、その成立と発展の経緯を記述する。

 

 

・設立までの背景:戦前

・設立までの背景:戦後

・コルメナ文化協会の設立

・現在までの推移:ラ・コルメナパラグアイ日本文化協会へ


設立までの背景:戦前

■文化活動

 ラ・コルメナ移住地では、入植の翌年1937年から体育倶楽部(4月)、男子青年団(6月)が設立されていた。1941年には女子青年修養団も加わり、野球、相撲、剣道に運動会、敬老活動等、日本文化に関わる種々の活動が開催されていた。

 

■移住者統治

 入植初期、ラ・コルメナには法的に正式な統治機関は存在していなかった。手続きそのものは拓殖推進機関であるパラグアイ拓殖部/拓殖組合が担い、移住者たち自身の意思決定が必要な場合は、区画ごとに割り当てられた組の長達により、あるいは家長同士による会議が開かれていた。

 1941年6月には経済調査等を目的に更生委員会が発足し、さらに1942年1月には更生委員会と組長会議が合併し、自治会が発足した。

 

 文化・統治どちらの組織も、戦中の1943年2月に「一切の公共団体を解散する様」(▲ラ・コルメナ二十周年史P.13日沖剛)、当時の権益擁護者であったスペイン公使から指示され、解散を余儀なくされた。

最初の青年団(会)と思われる写真。1937年6月29日発足(※)。最初は男性のみが構成員だった。1941年10月には別途女子青年修養団が発足した。
最初の青年団(会)と思われる写真。1937年6月29日発足(※)。最初は男性のみが構成員だった。1941年10月には別途女子青年修養団が発足した。


設立までの背景:戦後

 1945年8月の日本国敗戦後しばらくの間、移住者自身の統治機関は当然許されなかった。

 日本及びブラジルと関係が途絶え独立していたパラグアイ拓殖組合が、移住者の手続機関として機能しているに過ぎなかった。

 

■文化活動

 この背景の中、1946年6月、「体育の向上」(▲ラ・コルメナ二十周年史P.190Pa1L2碓井茂)を目的としてラ・コルメナ体育協会(通称「体協」)が組織される。

 この体育協会は、例えば1950年7月には随筆や詩を集めた冊子「緑地」を発行開始する等、文化活動全般に渡って活動していた。

 1954年には青年団が再発足し、体育協会から一切の業務を引継いだ。

 こうして、後の「ラ・コルメナ文化協会」の前身がここに形作られることとなった。

 

■移住者統治

 少し年代が前後して、終戦直前の1945年7月17日、ラ・コルメナは単なる一地域としてではなく、郡として大統領令により認定されることとなった。初期と類似した形式で、新たに15の区画(組)分けによる代表者合議制の形式がとられていたようである。

戦後に設立された男子青年団及び女子青年団。写真は発足後しばらくしてからのものと思われる。
戦後に設立された男子青年団及び女子青年団。写真は発足後しばらくしてからのものと思われる。


1956(7)年 ラ・コルメナ文化協会の設立

 1952年、パラグアイ拓殖組合はまずコルメナ農協に対して、各種施設とともに移住地管理業務を委託することにした。

 1956年6月30日にはこの委託業務が完了することになる。

 

 パラ拓からの業務委託は当時唯一の公的組織であったコルメナ農協に対して行われたわけだが、当然農協は主に農業発展に関する組織であり、移住地管理業務を担う組織が別途必要となった。

 

 そうして来る1956年(57年とする記述もある)、54年に再発足していた青年団に壮年層が協力し、文化活動と日系社会全般の自治行政を兼轄する機関として「ラ・コルメナ文化協会」(Centro Cultural La Colmena)が発足した。

 

 それまでは各組長+パラ拓 という構図での統治形式だったが、移住者自身が統治機構の構成員となることで一元化されることとなったのである。

ラ・コルメナ文化協会の初代公民館(※)
ラ・コルメナ文化協会の初代公民館(※)


現在までの推移:ラ・コルメナパラグアイ日本文化協会へ

 ラ・コルメナ文化協会は発足後、期待された通り、現在に至るまで日系社会の文化活動及び統治を司る一元的な機構として機能している。

 部署を総務・文化・事業・教育・体育・財務・事務と分け各担当理事を配置し、各種スポーツ・文化活動は勿論、渉外や日本語教育から衛生・保健に至るまで、移住地の多様な懸案事項に対処している。

 

  1986年4月には、元来農協の一部であった婦人会が改めて文協婦人会として再発足し、現在に至る。

 一方青年団は文協設立と同時に統合されて「青年部」となったものの、その統括は基本的に文化協会からは独立している。

 

 ラ・コルメナ文化協会はその後「ラ・コルメナパラグアイ日本文化協会」(Asociación Cultural Paraguayo Japonés(esa) de La Colmena)と改称、1981年に大統領令29810号によって認可され、現在に至る(※)。

 

■施設について

 1953年1月に現在の文化協会公民館(サロン)がある位置あたりに木造の青年会館が設立された。当時は体育協会またその後設発足した青年団が管理するものであったが、コルメナ文化協会設立後は文協の管轄となった(※)。

 

 1972年1月には同位置に2代目公民館が新築された。

 

 1985年12月には、ラ・コルメナ及びパラグアイ入植50周年を記念し、3代目公民館が同位置に新築されることとなる。

 2016年5月にこの公民館は改修されるものの、基本的な構造は85年竣工のものから変わっていない。

 尚、2代目公民館はその後、2018年5月現在の文協副会長日系二世金沢要二氏の自宅として再利用されている。

 

 




 

 

備考:

(※)最初期青年団(会)の写真撮影時期について

 例えば、左から3人目にいるのは岡庄之助氏であるが、「アグスティーナ・ミランダ」の項目上から2枚目の写真と比較するに、

同じ程度かそれ以上に若い。

 加えて、戦後に発足した青年団は揃いのユニフォームを作成していた。

 以上より、写真は戦前=最初の青年団(会)のものと判断した。

 

(※)ラ・コルメナ文化協会初代公民館の設立時期について

 記録上1956(7)年の文化協会設立から1972年の2代目公民館設立までの間に、公民館や会館といった名称で建物は建設されていない。

 ▲ラ・コルメナ二十周年史P.198-199によると、直近では1953年1月に「コルメナ会館」(体育協会時代)、「コルメナ青年会館」(54年青年団発足後)と呼ばれる建物が竣工している。

 「コルメナ青年会館」の位置については明らかではないが、建設時期から考えて、青年団が拠点として使用していたこの建物を、改めてラ・コルメナ文化協会が利用した可能性は高いと思われる。

 

 尚、「コルメナ会館」は青年団体の拠点としては2代目で、初代「青年会館」は1940年8月に完成している(▲ラ・コルメナ二十周年史P.9日沖剛)。

初代青年会館は、2018年5月現在の金沢友衛(1世金沢知衛氏の子孫)氏宅兼商店のあたりに位置していたそうである。

 

(※)3代目公民館外観の写真引用元

▲パラグアイ日本人移住五十年史P.185