戦後の苦境と退植

日本国の敗戦直後、ラ・コルメナの日本語学校は、付属設備を含めて没収されてしまった。

落胆の中、入植者たちに追い打ちをかけるように種々の問題が襲いかかり、移住地は最も厳しい時代に入ることとなった。

 

ここでは、戦後の移住者たちに襲いかかった苦難の中でも重大と思われる蝗害及び革命、その結果急激に増加した退植について、戦前の傾向と併せて述べる。

 

 

・敗戦・戦後干渉の継続による影響

  ・戦後 ~ 日本語学校没収・教育の非公式化

・戦前から続く危険要素の悪化

  ・1946年~ 蝗害

  ・1947年  革命、義勇軍による徴発

・1948年 退植者の一斉増加


戦後~日本語学校没収・教育の非公式化

 1945年8月8日(または9日)及び8月27日、2回の大統領令により日独学校及びそれを構成している委員会は解散・没収することを命じられた。

 日本はその1か月後の9月24日に学校及びそれに付属する一切の備品・施設を譲渡し終えた。その中には、それまでの校長宅等も含まれていた。

 こうして、ラ・コルメナから公的な日本語教育機関が消滅した。

 

 以後のラ・コルメナは、矢沢・森谷・高橋・国広といった個人による非公式教育によって、日本語教育を続けることとなった。

 

 この状態は、終戦直後から1969年6月まで、すなわち現在(2018年5月)の日本語学校敷地と同位置に日本語学校が再建されるまで、約15年間続けられた。

 

 尚、非公式ながらもパラグアイに日本語教育が黙認されていた背景として、戦前当時、パラグアイ教育も必須であった日本語学校において、パラグアイ国教育の教師として職に就いていたアグスティーナ・ミランダ女史の奮闘がある。

 この点は別項「アグスティーナ・ミランダ」においても記述してある。



1946年~ 蝗害

  蝗害、すなわちバッタの大群による作物の被害は、入植当初から発生していた。

 

 例えば▲ラ・コルメナ二十周年史P.135L1の森谷吉五郎氏の記述によれば、「開拓初年度の」、すなわち1936年の「十一月には早くも蝗群の来襲があり、翌年の九月にも再来した(…)」とある。

 

 「先づ度肝を抜かれた」と吉五郎氏は述懐するが、同時に「南下する途中休憩のための一時的降下であったので、大きな被害はなかった(…)」(同L2)としている。

 

 

 本格的な蝗害は、戦後1年ほどが経過した1946年8月19日、また同年10月4日に起こる。

 来る1946年8月19日、幅4km、広さ35㎞、面積にして14,000haに届くバッタの大群がラ・コルメナに押し寄せた。

 当時の移住管理機関であるパラグアイ拓殖部/組合が移住地として購入した土地は合計約11,000haであり、この大群は移住地全土を覆って余りある広がりを見せたことになる。

 その様子は雲に近似しており、天日が遮られ移住地に影が落ちたという。

 これらの対処のため、移住者たちは急遽会議を開き、火炎放射器を導入し、持ち回りで使用した。

 一か所でも対処が十分でなければそこから蝗群は溢れかえり、再度飛散したため、対処には困難を極めたという。

 

 

 更に同年10月4日に来襲したバッタ群は、それまでと違い産卵を行った。その後1,2か月かけて孵化した幼虫は、せっかく植えなおした作物を再度食べつくし、去って行った。

 1947年9月に再度蝗群は来襲し、産卵していった。

 

 

 さらにしばらくして、1953年9月にコルメナ最後の蝗害があった。この時には有効な農薬が出回っていた為被害は微小であった。

当時の火炎放射器を持つ森谷ルイス氏(※)
当時の火炎放射器を持つ森谷ルイス氏(※)


1947年 革命、義勇軍による徴発

 移住初期の項目の通り、ラ・コルメナに移住が開始される以前よりパラグアイの政治は不安定を極めていた。

 

 以後1937年8月に再度アスンシオンで政変があってから、

戦前戦中まである程度安定した政治が行われていた。

 この政変自体もアスンシオンでクーデターが完結していたため、直接的な影響はなかった。

 

 しかしながら1947年2月ごろから再度勃発した大革命は、大きな被害をラ・コルメナの移住者に与えた。

 

 1947年4月革命軍は中部コンセプシオンに革命政府を樹立し(この時を革命の公式時期として用いる向きも多い)、そこから南下しアスンシオンを攻略しようとした。この途上にある地方において、有志の、統率されていない革命軍が結成されることになった。

 これに対し公式政府は同じく有志による義勇軍を地方毎に結成させ、対処に当たった。

 各地方の一般市民は、革命軍、義勇軍の「調達」「徴発」行為に怯えることとなったのである。

 

 ラ・コルメナには公式政府による義勇軍が駐屯していた。彼らは毎日、食糧品の調達、軍馬の徴発に来た。

 役馬を10日、20日と酷使し、殆ど動けなくなってから返すといった行為が何度も繰り返された。

 当然、この間物理的にも精神的にも耕作はほぼ不可能な状態に陥った。

 

 この状態は1947年8月、公式政府側の内戦大勝まで、4か月から半年の間続いた。

ラ・コルメナで飼われていた役馬。義勇軍の徴発後しばらくは、疲労でまともに立つこともできないほどだったという。
ラ・コルメナで飼われていた役馬。義勇軍の徴発後しばらくは、疲労でまともに立つこともできないほどだったという。


退植者の一斉増加

 革命や蝗害と同じく、退植(ラ・コルメナからの退去)そのものも初年度から既に発生していた。

 

 最初期においては1938年6月に主要な退植の第一波が起こっている。この時点での退植者は主に、ブラジルから一般移住者の農業指導の為に来た移住者たちであった。彼らはあまりに体制の整っていないパラグアイから、既に移住地としてある程度の発展を遂げていたブラジルへと転住した。

 

 1942年より後は国交断絶の影響により、退植が許されなくなった。その後、上記のような苦境の只中にあった折に1948年に退植が再開され、1948年内だけで、一気に17家族が退植した。

 

 次項の通り1948年7月18日(法律認可は同8月5日)には起死回生策としてラ・コルメナ農業協同組合の創立が成るわけだが、その態勢が整うのは更に後年になってからである。

 

 その証拠として、1948年から1956年までの8年で、59もの家族が退植している。これは戦前の退植家族35家族(これは開拓最初期、純粋に開拓作業が最も大変な時期を含む)の1.5倍以上であり(※)、いかに敗戦から続く苦境が大きなものかが推測できる。



 

 

備考:

(※)日本語学校の「1975年4月以前」の写真の推測根拠

写真の2列目右から2番目にいるのは日沖剛氏である。

日沖氏は1975年の4月24日に逝去されているため、その生前の写真はそれ以前に撮影されたことになる。

 

(※)1969年6月15日再建以降の日本語学校校舎の推移

▲パラグアイ日本人移住70年誌P.176左L1では

「1990年、日本語学校の新校舎が建設された。これは、1939年、1969年に次ぐ3度目の建設であり、校舎が老朽化し完成が待ち望まれていた。」とあるが、これは誤りである。

 確かに1990年、2006年と2回の改装を行い(▲パラグアイ日本人移住70年誌P.176左L1、P.177右L1)屋根を葺き直したり、廊下の右側突き当たりにトイレを設置したりしたようであるが、基本的な構造はそのままである。

 このことは、該当箇所の諸写真(75年以前の写真から現在まで、途中新築したにしては窓枠の形や柱の位置まで酷似しすぎている)からも明らかであり、また元教員であり、田中秀穂写真記念館の管理者の一人でもある日系二世田中民子さん(婚前の姓は「根岸」。根岸嘉幸の息女)に行った口頭での質疑(2018年5月24日実施)でも確認している。

 

(※)火炎放射器を持つ森谷不二男氏の写真引用元

▲パラグアイ日本人移住五十年史P.121

引用元には写真の人物を「森谷不二男」氏としているが、森谷吉五郎氏の三男「森谷ルイス」氏の間違い。

 

 

(※)退植者の数

▲ラ・コルメナ二十周年史P.288~退植者名簿より計算