ラ・コルメナは特に戦中戦後から様々な不運に見舞われ、多数の退植者を出した。
他方で腹を括り、この地に留まる決意をした者もいた。
当項目では、ラ・コルメナ復興策として打ち出された農協設立を取り上げ、設立までの詳しい経緯を記すこととする。
・前身となった諸共同活動
・第1次農協設立運動
・第2次農協設立活動・農協設立へ
・1948年7月18日 ラ・コルメナ農協創立総会
1.蝗害への共同対処
1946年8月と10月、また1947年9月に襲来したバッタの群れに対処するため、都度移住者によって対策委員が開かれた。
文字通り全ての畑で駆除しない限りバッタは拡散し続けるため、全戸体制での協力が要請されることとなった。
蝗害を一種の天災とみなしていたパラグアイ人農家はこれに協力的ではなかったため、駆除は作業至難を極めたという。
この事態が、皮肉にもラ・コルメナの移住者たちに、共同の経験と必要性を強く自覚させることになった。
2.1947年革命時の自警団
1947年の革命時、ラ・コルメナの住民は本国敗戦直後により日本からもパラグアイ政府からも支援の期待できない状況下にあった。義勇軍に対する対処に関して所管の警察署に折衝したものの、状況の根本的な解決には至らず、結局移住者自身での自警団結成に至った。
3.農産物共同販売
個々の農家相互の協力により、一時期共同販売が実施されていた。しかしながら移住地外道路や天候の悪条件、協働の訓練や統率が不十分なため、失敗している。
4.自主金融団体
戦前パラ拓を通じて行われていた日本政府からの補助貸付が中絶した後、個人貸借を基礎とした相互扶助が萌芽的に行われていた。1947年の革命以後、国政改革が起き制度が再度整えられたことにより、パラグアイ国立銀行からの借入が望まれるようになる。
上記のような相互扶助活動の生起にパラグアイ側の制度の改善、更に46年、47年と続く綿花の豊作、また戦争による国内需要の増加を契機に、本格的な農協設立運動が開始されることとなった。
1947年3月25日、当時のパラグアイ拓殖組合(※)支配人日沖剛氏等10数人が、共同で「農業協同組合設立趣意書」を作成し、組合への加入を呼びかけた。
しかしながらこの趣意書は、農家にはそれほど反響がなかったという(※)。
この原因として、中核的な指導者やパラグアイの組合法に精通した人材の不在、設立後の運営や純農者ではない発起人に対する不安などが挙げられている。
第1次設立運動は停滞したまま、翌1948年の新春を迎える。
その16日のこと、1936年5月15日にコルメナへと踏み込んだ最初期パラ拓の一員であり、以後は一農家であった酒井好太郎氏が、「ラ・コルメナ農業協同組合創立運動の産婆役を努める」(▲ラ・コルメナ農協拾五年の歩みP.55Pa3)と表明した。
酒井氏は、まず「移住地の皆さん」と題して改めて趣意書を作成、パラグアイ国立銀行の後援も得ている旨を協調した。
また移住地内で座談会を開催し、農協設立の意義を熱弁した。
約2ヶ月に渡って酒井氏は同様の活動を続け、1948年3月25日には農協創立委員会を組織する。第1次設立運動において農協設立趣意書が作成されてから、きっかり1年が経過した時のことであった。
これとほぼ同時期、当時サンロレンソのマリア・アンヘラ(カネサ)農場で働いていた森谷不二男氏が、正月休みでコルメナへと帰省していた。
この森谷不二男氏から、彼の同僚であり、そしてパラグアイの農業組合法発案者でもあるウリセス・カスターニャ氏の存在を知った酒井氏は、早速翌2月にはアスンシオン市まで出張し、森谷・ウリセス両氏と面会の上、農協設立のための技術指導を依頼した。
両氏ともこれを快諾し、創立委員会への参加を約束した。
こうして幹事に森谷不二男氏、技術指導にウリセス・カスターニャ氏を加えて発足した農協創立委員会は、その後両氏の指導を元に組合法の研究・定款作成・翻訳に取り掛かった。
来る1948年7月18日、パラグアイ国立銀行会長、金融部長等の賓客出席の上、ラ・コルメナ農協創立総会が開催された。
創立総会では74名が組合員として名簿に署名し、その場で法人格取得申請が行われた。そして翌8月5日、コルメナ農協はSociedad Cooperativa La Colmena Agrícola Ltd.として、晴れて正式に認可されたのである。
備考:
(※)「パラ拓」の名称について
ラ・コルメナは、戦時中日本はもちろんブラジルとも連絡が途絶えていた状態であったようである(▲ラ・コルメナ二十周年史P.83PaL3宮坂国人。1946年の入植10周年記念時ブラジルより送られた祝辞に、「 世界大戦中は、国際関係上通信の便なく、打ち絶えて御無沙汰に打ち過ぎましたことは御勘恕願います。」とある。ただし、具体的に「ブラ拓と関係が断絶した」と記されている公的な文章は発見できていない。)
そうであるなら、開拓当初の「ブラ拓のパラグアイ拓殖部」という位置づけは、戦中戦後のパラ拓を示す表記としては不適切と思われる。
現在筆者が確認できる史料で最後に「パラグアイ拓植部」名称が用いられたのは、
戦中1944年5月15日入植祭時に撮影された写真(第二次世界大戦と国交断絶の項の写真)である。
そのため便宜的に、この写真が撮影された1944年5月15日以前は「パラ拓」を「パラグアイ拓殖部」、同時期以後を「パラグアイ拓殖組合」として表記することとする。
(※)第1次農協設立運動の記述について
▲ラ・コルメナ二十周年史P.172にて、碓井茂は「農業協同組合設立趣意書」配布直後に農協設立運動が成功したかのように記述している。
上記には記載されていないのだが、実際はこの趣意書による加入呼びかけは上手く進まなかったようである。
このことは趣意書が作成された1947年3月25日から実際の創立まで1年半近く時間がかかっていること、▲ラ・コルメナ農協壱五年の歩みP.54が「農家にはそれほど反響がなかった」PaL7としていること、あるいは第2次農協設立運動にて、農協の定款を翻訳した坂本邦雄氏本人がここ(ニッケイ新聞2012年6月2日 坂本邦雄)にその詳細を書いているように、明らかであろう。
(※)農協15周年時の創設功労者及び組合員の写真引用元
▲ラ・コルメナ農協拾五年の歩みP.21
(※)森谷、ウリセス、坂本、国広諸氏の写真引用元
森谷氏 ▲ラ・コルメナ農協四十年史P.31
ウリセス氏 ▲ラ・コルメナ農協四十年史P.30
坂本氏 ▲ラ・コルメナ農協四十年史P.78
国広氏 ▲ラ・コルメナ農協四十年史P.32