20世紀後半の「親日大統領」

 

  アルフレド・ストロエスネル・マティアウダ


略歴1 生誕~1954年大統領就任

 1912年11月3日エンカルナシオンに、ドイツのビール醸造職人の父の息子として生まれた。

 

 17歳のときに軍属となり、その2年後には尉官の地位を得る。

 その後ブラジルで砲兵としての訓練を受け、好成績を挙げたことから1941年1月に帰国した直後には士官学校の砲兵隊教員となり、その後校長の推薦で参謀本部へと栄転した。

 

 更に1947年の革命時にはアスンシオンの政府守護の任につき、首都防衛を果たした。

 この功績が認められ、翌1948年には准将の地位が与えられた。当時将官としては最年少の快挙であった。

 

 昇進はその後も続き、1951年にストロエスネル氏は国軍総司令官となる。

 1954年5月4日、ストロエスネル氏はクーデターを起こし時のフェデリコ・チャベス政権を打倒。同8月、自ら大統領に就任した。

1954年 アルゼンチンペロン大統領と会談するストロエスネル大統領(※)
1954年 アルゼンチンペロン大統領と会談するストロエスネル大統領(※)


略歴2 1954年大統領就任~

 1930,40年代にかけての度重なる革命を目の当たりにしていたストロエスネル大統領は、まず対立勢力となりうる有識者・有力者を追放・配置転換した。密告集団を秘密裡に組織し、勢力内の監視体制を構築した。コロラド党を媒介に党派を統一し、軍部を取りまとめ、必要に応じて言論統制を行った。他方、忠誠が確かな者には人種や階級に関係なく地位を与え、重用した。

 以上のように、ストロエスネル大統領は、自身を頂点とする一元的な縦社会のシステムを構成したのである。

 

 1989年2月アンドレス・ロドリゲス将軍によるクーデターにより政権が交代するまで、約35年間という永きに渡り統治は行われた。

 

 革命後ストロエスネル元大統領はブラジルへと亡命し、2006年8月16日にその生涯を閉じるまで、静かな余生を過ごしたという。



日系社会への貢献

 ストロエスネル大統領の政治全体には賛否両論があるものの、ことパラグアイ国内の日系社会に対しては、非常に友好的な態度が取られていた。 特に日本の明治維新及び戦後復興における発展に興味を持ち、1972年4月にはその発展を目の当たりにするために日本を訪問している。

 その親日ぶりは、誕生日が明治天皇と同じことから自らを 「明治天皇の生まれ変わり」と呼んだという逸話があるほどである。

 

 ストロエスネル大統領は、先述のアグスティーナ・ミランダ女史を通して、特にラ・コルメナとの関係を深めた。

 その主要な訪問暦だけでも他国では例を見ない頻度である。

 

<ストロエスネル大統領の主要なラ・コルメナ訪問暦>

 ■1955年11月5日  運動会に参加

 →翌年1月女子青年団の返礼訪問対応。自動車・飛行機を手配。

 ■1966年9月9日 パラグアイ日本人移住30周年式典に出席。

 ■1972年11月  (~1988年12月)

  アグスティーナ・ミランダ高等学校開校式に出席。

  →以降88年度まで毎年12月卒業式・生産物品評会に出席。

 ■1976年1月21日 農産業協同組合の新事務所竣工式に出席

  同年 パラグアイ日本人移住40周年式典に参加

 ■1981年 農村電化点灯式に出席

 ■1989年1月 昭和天皇崩御の際、大統領令により中央官庁全てに喪に服するよう指示。

 

 現在コルメナの代名詞の一つ、「Capital de La Fruta フルーツの都」という渾名もまた、ストロエスネル大統領によって命名された(▲パラグアイ日本人移住70年誌P.173左PaL2)。

 

 具体的にストロエスネル大統領から日系社会が受けた政治的便宜については、ミランダ女史と同じく一般公開されていないようであるが、訪問歴から鑑みるに相当の配慮があったものと推測できる。

1955年11月5日、最初のラ・コルメナ移住地訪問時の写真。当日は記念に運動会が開催された。ストロエスネル大統領も日系子弟と共に参加し、その友好的な態度をいち早く露にした。
1955年11月5日、最初のラ・コルメナ移住地訪問時の写真。当日は記念に運動会が開催された。ストロエスネル大統領も日系子弟と共に参加し、その友好的な態度をいち早く露にした。



 

 

備考:

(※)1954年 アルゼンチンペロン大統領と会談するストロエスネル大統領の写真引用元

▲2011年1月15日(田島久歳、武田和久編)『パラグアイを知るための50章』「「三位一体」独裁体制の始まり ストロエスネル体制①」(稲森広明)東京.明石書店 P.142より