ラ・コルメナの歴史がパラグアイで始まる以前から、またそれ以後も、一貫して「パラグアイと日本の関係は良好である」と言うことができる。
当項目では、この点をより詳細に記述していくことにする。
・ラ・コルメナ以前の移住者の関係
・入植初期・戦中の関係
・戦後の関係
記録が残っている限りでは、永住者として初めてパラグアイに渡った日本人は佐幸田兼蔵氏となっている。
佐幸田氏は1912年に来パし、カサード港(プエルト・カサード)のタンニン工場に勤務していたらしい。
その後1916年に福岡庄太郎氏が北米、アルゼンチンよりアスンシオンに渡り、接骨・マッサージ業と花屋を兼業した。
この福岡氏は「パラグアイ人のあいだに人望があり、政府の要人とも簡単に謁見していたようである」(▲パラグアイを歩いた日本人-石井道輝遺稿集-P.10下Pa3L2)。その関係を活かし長らくコルメナ移住者の便宜を図ったことから、「一面私設領事の観があった」(▲ラ・コルメナ二十周年史P.206Pa5L2石井道輝)という記述もある。
また、先述の佐幸田氏も工場ではかなりの要職についていたらし
い。
1930年の末にブエノスアイレスから来着し、カフェ兼バーを開店した星田宗人氏等、その後も数家族がパラグアイへと渡航している。
個人的な関係の問題はあったであろうが、人種・民族・文化に起因した諍いは筆者の調べる限り見られない。
入植当初からのパラグアイ人との関係についてはあまり詳しい記述が残っていない。何件かの例外は除き(※)、概して関係は良好であったようだ。
戦中の時期には、パラグアイ社会の日本人に対する寛大さが多く記されている。
ここで重要なことは、この関係性について言及しているのが専ら取締を受けていた日本人の方である点だ。
本来外部からの圧迫について悪しざまに書かれるはずの戦中という状況下に、「概して何の問題もなかった」と書ききることができた事実が、まず特筆されるべきであろう。
ここではそのうちいくつかの記述を抜粋することにする。
▲ラ・コルメナ農協四十年史P.29Pa3森谷不二男
「ラ・コルメナに居住していた日本人は、パラグアイ政府より強い圧迫は無く、一般市民からは好感を持たれた生活をした。」
▲ラ・コルメナ二十周年史 P.55LL2岸重遠
「国民大衆は好意こそ持て、敵意など全然なかったといってよろしい。」
▲同P.57L2-L6 岸重遠 干渉官について
「 初代トランソ大尉は(・・・)人の良い面もあり、ズボラな面もあるが、「干渉官は決して圧迫のためのものではなく、正当な、生活を保護するのが任務だ」と強調していたが、単なる口先だけではなかったようだ。」
特に1950年前半、パラグアイ国会のサンフランシスコ平和条約の批准(※)から後、急激にパラグアイ人と日本人の関係は改善する。
ラ・コルメナ農業協同組合の活躍に加え、1954年より35年間台頭したアルフレド・ストロエスネル大統領の好意、元日本語学校の教師も務めていたアグスティーナ・ミランダ女史の支援、及び、パラグアイ農業高校時代、移住者の一人である森谷不二男氏と同級であったエルナンド・ベルトーニ氏の活躍等、パラグアイ行政に関わる個人の熱烈な支援も加わり、日系社会への視線は非常に好意的となった。
パラグアイ人一般の認識もこれに大きく相反することもなく、この状態は現在でも継続している。
以下良好な関係の証左となる記述を数点抜粋する。どれも他国ではまずありえないほどと言ってよいほどの関係を示している。
▲ラ・コルメナ二十周年史 P.119PaL3 宮坂国人
(サンパウロ新聞1956年6月7日号からの抜粋)
「 パラグァイは住み心地の良い国である。それは現大統領エストルネル(注釈:ストロエスネル)将軍が、日本に好意を持っていてくれるからだ。
前に述べたように、昨年十一月五日将軍が、ラ・コルメナを訪問したとき、移住地側では運動会をやったが、将軍は移住地の日本人と一緒に走ったりなどするほど気軽でよい人だ。」
▲パラグアイ日本人移住五十年史 P. 29下段Pa1
記念誌発刊に対するパラグアイ日本協会初代会長・元国防大臣マルシアル・サマニエゴ氏の祝辞
「 第一にラ・コルメナは、アルフレッド・ストロエスネル大統領に高く評価されている。大統領は、毎年十二月にラ・コルメナまで行き、アグスチーナ・ミランダ国立高校を卒業する数百人の卒業式に臨席されている。」
▲パラグアイ日本人移住70年誌P.312左上
「政治関係の現状」より(在パラグアイ日本国大使館執筆)
「 両国関係は極めて友好的である。(…)ストロエスネル政権時代の1989年昭和天皇崩御の際は大統領令により中央官庁すべてが喪に服した他、毎年開催されるパラグアイ日本協会主催の天皇誕生日記念祝賀会の模様はラジオを通じて全国に実況中継される。1989年2月3日のクーデターによる政変後も、日本は2月14日にロドリゲス新政権を承認し、両国の友好親善関係の継続が図られてきた。
国際場裏にもかかる友好関係は反映され、国連等国際機関の選挙においては、パラグアイはほとんど例外なく積極的に日本を支持してきている。」
1990年11月には、パラグアイは一方的に3か月までの日本人旅行者滞在に関するビザ免除を決定した。
更には日系人・元日本人から2名の「在日パラグアイ大使」(田岡功氏 2004/9/14~2009/9/14、豊歳直之氏 2009/12/8~2017/11/20)を誕生させている。
備考:
(※)入植初期に起きた事件の一例
1937年末に男女関係の縺れにより鈴木吉通パラ拓(パラグアイ拓殖組合/拓殖部)職員がパラグアイ人に銃殺される事件が起こった。その翌年1月20日に発行された機関紙「コルメナ旬報」にて、当時の初代支配人内田千尋氏より、「パラグアイ人との折衝に関する注意」という題目の記事が掲載されることとなった。
(※)日パ親善すき焼き会の実施時期
▲ラ・コルメナ二十周年史P.67 碓井茂 同写真説明より
「日パ親善すきやき会(終戦直後)」
(※)眞子内親王殿下及びオラシオ・カルテス大統領の写真引用元
2016年9月8日Ultima Hora紙「Princesa Mako Fue Recibida por Cartes」(閲覧日:2018年5月23日)
http://www.ultimahora.com/princesa-mako-fue-recibida-cartes-n1022505.html 内写真