移住決定~移住初期

1936年5月15日、3人の拓殖関係者がパラグアイ最初の移住地「ラ・コルメナ」に足を踏み入れた。

1936年8月17日、最初の移住者がコルメナの土を踏んだ。

 

この項目では、移住最初期における開拓者と移住者の動きを追い、いかにして移住がはじめられたのか、また最初期のラ・コルメナでの生活はどのようなものであったのか、記述することにしたい。

 

 

・移住決定までの経緯

・1936年8月17日 日本からの移住者が初来植

・入植初期の生活

・先住していたパラグアイ人


移住決定までの経緯

 日本人のパラグアイ移住は、1934年ブラジルで可決された二歩制限法(※)を契機として開始された。

 

 それ以前に行われていた諸々の調査をもとに1934年7月)、1935年10月と追加で調査が行われた。

 1936年3月、3つに絞られた候補地の本格的な調査が開始された(▲ラ・コルメナ二十周年史P.1,209)

 

 しかし同4月7日、移住地選定の最中に、突然移住に差し止めがかけられる。

 1936年2月17日に革命が勃発し、それまで親日であったエウセビオ・アジャラ大統領から、新たにラファエル・フランコ将軍へと政権が移っていたのである。

  

 その後1936年4月29日にフランコ政権は新たに日本人移住に対する大統領令を発布。

 日本人の移住は試験的に、百家族のみ入植可、首都近郊の居住を硬く禁止され、専ら輸出作物の生産に従事すべし等といった旨が通達されることとなった。

 

 とにかくも中断されていた移住地調査は急遽再開の芽を見ることとなり、1936年5月初頭再調査が実施された。

 

 そうして最終的に選ばれた場所が、パラグアリ県イビチミ郡イリアルテ地方のパルミーラ耕地であった。

 

 元々通称として呼ばれていた「ラ・コルメナ」(蜂の巣箱)が自らの移住地としての名称として採用され、ここに「ラ・コルメナ移住地」が誕生することとなったのである。

 

 移住地の管理事務機関として、ブラジルに拠点を置くブラジル拓殖組合(ブラ拓)が中心となり、そのパラグアイ拓殖部(パラ拓)として機関が設置される運びとなった。

 

 

 そして来る1936年5月15日(入植記念日)、内田千尋、笠松尚一、酒井好太郎諸氏が初の本格的な移住地準備・測量のためラ・コルメナに到着した。

 第一回入植の、たった三か月前の出来事であった。

最初期のラ・コルメナ移住地全景

  最初期開拓関係者の一例(詳しくは画像をクリック)



1936年8月17日 日本からの移住者が初来植

 1936年6月29日、7月9日、そして同23日、まずはすでに開拓経験を持つブラジルからの農業指導移住者10家族が来植した(※)。

 

 日本からは1936年8月17日、第一回移住者11家族81名を皮切りに、1941年9月第二十八回まで来植が続いた。

 ブラジルからの農業指導移住者および日本からの一般移住者、合計126世帯790名(※)が到着した。

 

 移住者の募集は当時冷害の被害にあえいでいた東北地方を中心に行われていたが、想定よりも応募が少なかったことからあまねく全国へと拡大され、その結果津々浦々の出身者が混在しての集団移住が行われることとなった。

 

 移住者は神戸の教養所で10日程度の短い訓練を終え、首都アスンシオンまで約2か月の船旅ののち、アスンシオンからは南米最古の蒸気機関車で最寄駅「イビチミ(ウブトゥミ・Ybytymí)」に到着、その後牛車にて20kmほどの道を半日ほど揺られ、コルメナへと来植した。

 

 到着した移住者たちはまず「収容所」と呼ばれる共同施設に全員が入り、割り当て地(ロッテ)付近に自宅となる家屋を建てた。

 

 その後順次完成した家屋へ移動し、原始林・原野の開拓を行った。

移住者が訓練や防疫の手続きを受けた神戸移住教養所(※)
移住者が訓練や防疫の手続きを受けた神戸移住教養所(※)

1937年1月頃~同9月頃までに作成されたと思われる初期移住地の地図。(※)推測の根拠は備考参照。この地図は、上を南、下を北としている。
1937年1月頃~同9月頃までに作成されたと思われる初期移住地の地図。(※)推測の根拠は備考参照。この地図は、上を南、下を北としている。

入植初期の生活

 特に最初期の移住者たちにとって、食糧と住居の確保が最優先事項であった。

 

 当初は手持ちの食糧を消費しつつ、動物を狩り魚を釣り、食べられそうな雑草があればそれらを採取し調理していたという。

  移住者は、そのようにして糊口をしのぎつつ、家屋となる掘っ立て小屋を立て、井戸を掘った。

 次に木を切り倒し、火をつけ、焼け跡を整地し、更に牛が侵入して作物を荒らさないように周囲に柵を設けなければならなかった。

 種を蒔くことができるようになったのは1936年12月頃、最初の移住者が来着してから4ヶ月も経過してからのことであった。

 

 入植からほとんど間を置かずに日本語教育も開始された。

 入植開始年1936年の11月には日本から藤沢正三郎氏が派遣され、16日に「第一収容所」を仮校舎として日本語小学校が開校した。机や椅子は、丸太を地面に打ち込み板を渡しただけのもので、授業は小学1年生から6年生までを同時に相手取って行われた。(その後遅くとも1938年10月までには煉瓦建ての校舎が建設されている。)

 当時のパラグアイ国政府はパラグアイの教育課程を移住者にも課していたため、午前中はパラグアイ人教師による授業、午後から日本語による授業が行われていた。

 

 1937年6月29日には第1回入植記念祭が開かれ、初の運動会が挙行された。



先住パラグアイ人の存在

 コルメナ移住地がイリアルテ、またはパルミーラ耕地と呼ばれていたころから、ある程度のパラグアイ人が先住していたようである。

 

 例えば▲ラ・コルメナ二十周年史P.94日沖剛 によると、1936年の時点でパラグアイ人は大体100家族600人、10年後の1946年では270家族1,622人、コルメナに居住している。

 ラ・コルメナは日本人移住地である一方、その最初からパラグアイ人との共同生活を絶えず行っていた混成地域として理解できる。

1936年の時点で600人ほどのパラグアイ人が居住していたとされる。
1936年の時点で600人ほどのパラグアイ人が居住していたとされる。



備考:

(※)二歩制限法

 1934年5月23日、ブラジルにおいて可決された外国人移住者の制限法。在留外国人の2%を毎年の新規移住者数の限界と定めるもの。詳しくは下記。 

 「二歩制限案遂に通過」 『伯剌西爾時報』号外 昭和9年5月24日 <楡木久一関係資料 27>

 

(※)指導移住者家族数について

▲ラ・コルメナ二十周年史P.2,3日沖剛年表より。引率の森谷吉五郎一家は、パラ拓所属となっており、移住者として数えられていないため除外されている。

 

(※)戦前入植家族数、入植人数について

▲ラ・コルメナ二十周年史P.3-11日沖剛年表より算出。

例えば同P.93で、日沖剛氏は「123家族790名」としていたりと、大同小異とはいえ参照する史料毎に人数がぶれており、ほとんど一致していない。

 これに加え、前述した指導移住者の引率者森谷吉五郎氏の一家等、当初パラ拓職員として勤務していた者たちはこの数字に計上されておらず(森谷不二男氏はラ・コルメナ農協四十年史P.28PaL2で15家族54名としているが、情報の根拠がなく、また他の書籍ではパラ拓関係者家族の記載がない)、正確な家族数、人数は不明である。

 

(※)1934年ごろの大統領官邸・国会議事堂・アスンシオン港の写真引用元
▲193411 拓務省拓務局 パラグアイ共和国事情 巻頭写真

 

(※)エストレージャ通りの写真引用元
▲1936年10月発行 拓務省拓務局 パラグアイ国事情 附。パラグァイ自作農移住案内「パラグアイ国事情」P.6

 

(※)付近の丘から一望したコルメナ移住地の写真引用元

▲1936年10月発行 拓務省拓務局 パラグアイ国事情 附。パラグァイ自作農移住案内P.5

 

(※)神戸移住教養所の写真引用元

▲1936年10月発行 拓務省拓務局 パラグアイ国事情 附。パラグァイ自作農移住案内 「パラグアイ自作農移住案内」P.3

 

(※)蒸気機関の汽車の写真引用元

▲パラグアイ日本人移住五十年史P.184

 

(※)宮坂国人氏の写真引用元

▲パラグアイ日本人移住五十年史P.116

 

(※)移住地地図の時期の根拠 参考資料:▲ラ・コルメナ二十周年史P.3-5日沖剛

 

 地図内の施設の中で一番遅くできているのが1937年1月「ほぼ完成」とある煉瓦工場。墓地・牧場の設置年度は不明。ここから、1937年1月以降のもの。1937年8月には種畜農場牧夫小屋が竣工し、試験農場実験室及び従業員住宅が起工している。が、農場や牧場そのものの完成とは別なので、この時期以降と断定するにいたらない。

 1.生産の重要な拠点であったはずの繰綿工場(1938年10月竣工)の記載がないこと 同じく重要な

 2.1938年9月竣工の製材所の記載がないこと

 3.1938年5月に契約書に署名した「ボカジャチー土地二千四百町歩」が地図にないこと

 4.1937年9月に仮事務所から引っ越した、パラ拓事務所の位置が地図にないこと

 これらから、あくまでも便宜的に、地図作成は1937年1月ごろ以降~1937年9月ごろまでのいずれかと考えたい。

 (たとえば何らかの目的によって記載が省略されている場合、作成時期は大きくここでの推測とは異なる)