初期数年の苦労によってラ・コルメナ移住地に、一応の安定がもたらされた。
移住者の来植が続き移住地が盛んになる傍ら、祖国日本には戦火が大きく広がりつつあった。
当項目では、パラグアイまで広がった祖国の戦禍が、移住地にもたらした影響を述べたい。
この項目に関しては▲パラグアイ日本人移住五十年史P.122-123 森谷不二男氏の文章に、非常に簡略にまとまっている。
そのため、この文章の引用を中心に記述していくこととしたい。
・1942年1月 パラグアイと日本の国交断絶
・1942年4月 干渉官制度の開始
・1945年8月 終戦、直後の日本語学校没収
・戦時中の入植者の生活
一九四一年十二月八日、日本国は米英との交戦に入った。一九四二年一月リオデジャネイロで開催された汎米会議でパラグアイは日独伊に対し国交断絶を通告した(※)ので、駐アスンシオン市日本領事館は閉鎖して、副領事(注釈:古関富弥氏(※))と館員は日本帰国となり、外交団交換船を待機していた。パラグアイ国在住の権益は、アスンシオン駐在スペイン公使が養護してくれることになった(注釈:1945年5月スウェーデン領事に変更)。
五月になると日本語小学校の藤沢校長夫妻がスペイン公使から呼び出しを受けて、日本へ帰還するように指示された。また六月には拓務省からの駐在員たる宮路、小松崎、山田の諸氏が日本へ引き揚げをしなければならなくなった。一九三六年以前からアスンシオン市に転住していた青年たちは政府の指示でラ・コルメナに帰された。ラ・コルメナ移住地は日本人の試験移住地だったのが、日本人の送り込み先地(※)になった。
一九四二年三月三一日に日本語小学校干渉官としてウーゴ・フェレイラ・グベッチ氏が任命された。一九四三年九月にラ・コルメナ移住地の干渉官として予備陸軍大尉マヌエール・トランソ氏が任命され干渉は本格的になり(※)、資産統制令、旅行禁止令その他の取締令(※)が発布され施行された。(中略)
当時ラ・コルメナ移住地が公共機関たる海外移住組合連合会所有であるとパ国政府より認定が下されれば没収される杞憂があった。そこで移住地側では干渉官トランソ予備大尉にラ・コルメナは日本政府や公共団体の所有でなく、宮坂国人個人の所有であると力説した。そのため移住地の没収は免れることができた。一九四三年十二月十一日付で旅行禁止令が出て(※)、病気その他特別理由で旅行する場合は二〇ペソの官製用紙で申請して許可書が必要となった。
(中略)この旅行禁止令は世界大戦後一九五二年まで適用された(※)。
一九四五年二月八日パラグアイ国は日伊独枢軸国に対し宣戦を布告した(※)。同年三月ラ・コルメナを在パ国日本人の収容地域に指定した(※)。/
四月に入ると枢軸国人に対する財産取締例が交付された。/
八月八日(※)大統領令を発して日独小学校団体の解散を命じ、終戦と同時にラ・コルメナ日本語小学校を没収してしまった。/
ラ・コルメナ移住地への干渉は一九五二年二月パラグアイ国会で対日講和条約が批准するまで続いた(※)。
1945年8月ー9月にかけて没収された日本語小学校。
写真は1940年12月から1942年6月までの何時かに撮影されたものである(※)。
ラ・コルメナ移住地の入植者は戦争中黙黙として農作物の生産に従事した。
農産物は戦争のため比較的良い値段であったが、輸入物資は不足を来し、特に燃料の入手が困難でランプを灯す石油が無く、ローソク、ヒマシの種子等を代用品として使用した。
世界大戦の成り行き模様は、日本からの短波ラジオ放送の聴取を干渉官が大目にみたので、田中秀穂医師が毎朝日本からのラジオ放送を聴取してニュースを流してくれた。それで入植者には戦争の成り行きは伝えられていた。
一九四五年八月十五日、日本国の無条件降伏のニュースを聴いた時、皆々何とも言葉では表すことの出来ない気持ちとなり、唯々愕然として眼から涙が流れ出るのみであった。
備考:
(※)国交断行
▲ラ・コルメナ二十周年史 P.12日沖剛
1942年1月「(…)芭国は日独伊の枢軸国に対し国交断行を決定した。」
(※)副領事 古関富弥氏
▲ラ・コルメナ二十周年史 P.294LL5
「古関富弥 副領事 在職:一九四〇・三~一九四一・一二」
(※)権益保護団体の交代について
▲ラ・コルメナ二十周年史 P.17日沖剛
1945年4月 「○スペイン公使から、「本職は今後在芭日本人の権益保護の役目を解消する」旨通知して来た。」
同5月 「スエーデン領事、在芭法人の権益保護者となる。」
※両詳細はラ・コルメナ二十周年史 P.64岸重遠が詳しい。
(※)ラ・コルメナが日系人の送り込み先と正式に定められた時期について
▲ラ・コルメナ二十周年史 P.61PaL2 岸重遠
「一九四五年(昭和二〇)四月、捕虜収容所に関する法規が出た。つづいて五月には『当国には捕虜収容所というものはない。コルメナの場合でいえば、日本人の送り込み先である』と特に力を入れて説明された。
ことの起こりは、パラグアイ駐在のアルゼンチン領事が帰国して、「パラグアイにはチャコに捕虜収容所があり、非常な重労働を強制している事実を確認した」と公表したことに端を発し、パラグアイ側では左様な事実は無根であると抗議するという、外交問題にまで及んだのである。このことに刺戟されて誤解を避ける意味で右の特別説明がなされたのである。」
実際強制的に連行されて収容される、ということは下記のように、なかったようである。
▲ラ・コルメナ二十周年史 P.61Pa1-P.62L
「ある在亜法人がエンカルナションからイビチミ駅に着いたとき、(・・・)干渉官が駅前の休憩所で取調べ「これはいけない。正規の書類を所持していないから適当の処置を要する。」という。(・・・)適当の処置を要するというのは警察にでも渡すことかとハラハラしながら、どうすればよいかと聞くと、「コルメナに行って、コルメナから動くことは相成らぬ」という申し渡しが結着であった。」
(※)1943年11月18日パラ拓支配人による注意書きの引用元
▲ラ・コルメナ二十周年史P.275-276日沖剛
(※)2代目干渉官任命時期
▲ラ・コルメナ二十周年史 P.14 日沖剛
1943年11月「○日本語小学校の干渉官フゴ・フエレイラ氏解任。後任はマヌエル・ヘ・トランソス予備大尉だが、同氏は前任者より、はるかに大きな権限を持ち、内務省の特務機関の直属であって、移住地全体を監視する干渉官であった。」
本文の引用では1943年9月に既にトランソ予備大尉の任命は済んでいたことになる。両者を信頼するなら、11月までの2か月間は、2人の干渉官が滞在していたということになる。
実際、2人干渉官がいることへの負担について、森谷不二男氏が下記のように書いている。
▶パラグアイ日本人移住五十年史 P.123最上段PaL2
「 一九四二年三月三一日に日本語小学校干渉官としてウーゴ・フェレイラ・グベッチ氏が任命された。一九四三年九月にラ・コルメナ移住地の干渉官として予備陸軍大尉マヌエール・トランソ氏が任命され干渉は本格的になり、資産統制令、旅行禁止令その他の取締令が発布され施行された。この二人の干渉官の給料をラ・コルメナ移住地で負担するのは重すぎるので、スペイン公使館を通じて日語学校干渉官の廃止を陳情した。すると間もなく学校干渉官の廃止された。」
(※)戦時中の各種取締令
・枢軸国民取締令: 1942年1月~3月頃
▲パラグアイを歩いた日本人P.64LPa1,3石井道輝より推理
・旅行禁止令: 1943年12月11日
▲ラ・コルメナ二十周年史 P.62Pa1岸重遠
・捕虜収容所に関する法規: 1945年4月
▲ラ・コルメナ二十周年史 P.61PaL3岸重遠
・財産取締令: 1945年5月公布
▲ラ・コルメナ二十周年史 P.53岸重遠
たとえば「捕虜収容所に関する法規」に関して、本文中だと同年3月になっている。
同様の微妙な時期の差異は、例えば初期干渉官ウーゴ氏の任命時期に関して、ここでは1942年3月31日だが、ラ・コルメナ二十周年史 P.12では同年4月とされている。
上記は実際に移住地当へ通達があった時期と、法令としてまたは正式な辞令として発布・施行または可決された時期とのズレと理解が可能である。
もちろん、どちらかの記載に誤りがある可能性もある。
上記の記載のブレは無数に存在しており、特に重要なもの、注意が必要な表記のブレに関しては適宜当備考欄にて追加し考察することとする。
(※)旅行取締令ほか干渉の廃止時期について
本文内では「干渉は一九五二年二月パラグアイ国会で対日講和条約が批准するまで続いた」とあるが、取締法令の具体的な廃止時期を明言する記述は見られない。
旅行取締令に関しては1952年に廃止されたと本文にあるが、それ以外の文献での具体的な記述はやはり見られない。
例えば▲ラ・コルメナ二十周年史 P.288ー292の退職者名簿によると、戦後の退植が1948年から既に行われており(同P.290)、52年廃止が事実であったにしても、遅くとも48年時点で何らかの特例・許可といった緩和策が講じられていた可能性がある。
(※)宣戦布告
▲ラ・コルメナ二十周年史 P.17日沖剛
「一九四五(昭二〇)二月(八日、芭国は枢軸国に対し宣戦を布告した。」
(※)コルメナ収容所認定について
・捕虜収容所に関する法規: 1945年4月 ▲ラ・コルメナ二十周年史 P.61PaL3岸重遠
本文では3月となっているが、引用下では4月と表記にぶれがある。
(※)日独小学校団体解散の大統領令の発令日
本文では1945年8月8日となっているが、
▲ラ・コルメナ二十周年史P.277の史料
「右大統領令発布に至る理由書」には、
「一、八月九日付大統領に依り(…)」とあり、表記がぶれている。
(※)干渉の終焉時期についての表記のブレ
大まかにまとめると1.サンフランシスコ平和条約へのパラグアイ批准時かそれ以前か、そして2.平和条約へのパラグアイの批准の時期 によって記述がブレている。
過半数の引用が、講和条約批准時を干渉=干渉制度の終焉として扱っていることから、1.のブレにおいては条約批准時として考えたい。批准時期については現在問い合わせ中である。(要更新)
<サンフランシスコ平和条約批准より前>
□1950年
▲パラグアイ日本人移住五十年史P.213 2段目Pa1
「一九五〇年(S二五)政府の干渉制度が解除され、翌一九五一年(S二六)サンフランシスコ講和条約の調印となるのであるが、(…)」
※1951年9月8日サンフランシスコ講和会議での調印を指す。その発効が1952年4月で、パラグアイの批准は1952年8月に続く。
▲パラグアイ日本人移住五十年史 P.214最下段Pa2
「 移住地が敵国人収容所となってから、その勧奨制度が解除されたのはずっと後で、一九五〇年(S二五)である。(…)」
※そもそも「干渉」が干渉官の制度のことなのか、あるいはもっと別種のものだったのかは明瞭ではない。またどちらも筆者名が不明で、信頼性はさほど高くないと思われる。
<サンフランシスコ平和条約批准時>
□1952年
▲パラグアイ日本人移住五十年史P.123 3段目LL3森谷不二男
「ラ・コルメナ移住地への干渉は一九五二年二月パラグアイ国会で対日講和条約が批准するまで続いた。」
▲パラグアイ日本人移住70年誌P.75右下
「1952 パ国国会で対日講和条約を批准、干渉官制度を廃止」
□1953年/54年
▲ラ・コルメナ二十周年史 P.165PaL5碓井茂
「(この干渉官は途中数名入れ代わったが一九五三年(昭和二九)の日パ両国間の講和批准まで続けられた)」
(※)没収された日本語小学校の写真撮影時期について
最前列中央及びその右側の高齢の夫婦は藤沢三九四女史及び藤沢正三郎元校長。この2人は1942年6月にはパラグアイを去っている(▲ラ・コルメナ二十周年史P.12)。
前から3列目中央すぐ右、明るいスーツを着た人物は最後のパラ拓支配人日沖剛氏で、1940年12月より来植している(▲ラ・コルメナ二十周年史P.9)。
上記より、写真はこの時期の間に撮影されたことになる。
(※)野球・相撲大会実施時期に関する記録の参照元
▲ラ・コルメナ二十周年史P.10-16