戦前に建設された多くの家屋・公共施設は解体されている。
一方、数件の建物は現在もその姿を残している。
ここでは特に開拓当初に建造され、現在(2018年5月)尚存在している建物を紹介する。
1.パラ拓支配人住宅(現「田中秀穂写真記念館」)
2.戦前日本語学校の校長宅(現国立勧業銀行所有物件)
3.診療所(現個人宅)
パラグアイ拓殖部/組合のラ・コルメナ事務所支配人住宅として建設された。
明確な完成日は不明だが、1938年10月の開拓資料には既にその存在が確認されている(▲ラ・コルメナ二十周年史P.274)。
応接間を備えており、来賓対応はこの支配人住宅で行っていたらしい。
瓦葺、煉瓦立ての堅牢な建築物で、屋根を葺き直し、入口を多少改装した以外、構造物はほぼ当時のままの状態を保ち続けている。
現在は入り口を一部改築し、屋根を葺きなおし、壁を塗りなおしている。
日沖剛氏が1975年4月24日に没した後、しばらくは親戚が管理していたが、10数年後、土地及び建物は拓殖医としてブラジルからコルメナに来た田中秀穂(ひでほ。下記3.も併せて参照。)の子女子息が買い上げたそうである。
2009年、田中秀穂氏の息女の夫であるアルベルシオ・トマス・フランコ氏が中心となり譲渡された支配人宅を利用し、「田中秀穂写真記念館」を開いた。
田中秀穂氏は個人の趣味として写真を嗜んでおり、自ら撮影した写真を現像して、移住者に配布していた。
写真記念館はそれらの写真を、移住者が日本から持ち込んだ道具・医療器具・娯楽物などと共に展示している。
これらの写真は秀穂氏の着任する1939年6月から特に戦前、戦後直後にかけて多数撮影された。他にカメラを持ち込んだ移住者はほとんどおらず、このことから、特に戦前から戦後すぐにかけての写真のほぼ全てが秀穂氏によって撮影されたとみなしてよいと考えられる。
支配人住宅と同様、こちらも詳細な建設日は不明である。
そしてやはり同様に、1938年10月の開拓資料には既にその存在が確認されている(▲ラ・コルメナ二十周年史P.267)。
1945年の敗戦直後、日本語学校の付属施設扱いでパラグアイ政府に没収されてしまう。
1946年2月より没収された施設をそのまま利用してパラグアイの公立小学校(当初は低学年のみ対象)が開校することになる。
当時の生徒数480名に学校の規模が足りていなかったため、元校長住宅はしばらく教室として利用されることとなった。
以後パラグアイ学校は対象年齢を増やし改築も行って施設の規模を適正にしていく。これに伴って施設の利用価値も逓減、すぐ隣に1948年開設された国立勧業銀行の支店に譲渡された。
尚、これらがいつごろに行われたか、公式な情報は発見できていない。
▲ラ・コルメナ二十周年史P.267に
「コルメナ医局
敷地 四〇m×四〇m=一、六〇〇㎡
建坪 六m×一六m
説明 昭和十一年九月十日穂積孝悌医師着任し直ちに開設した」とある。
ここから、建設は遅くとも1936年9月初旬には完了していたであろうことがわかる。
尚、持ち込んだ医療器具、薬品の無税通関手続きに数ヶ月かかっている。
本格的な診療の開始は大統領令で許可が出る1937年1月(※)以降まで待たねばならなかったようだ。
初代医師は日本から直接派遣された穂積孝悌氏であった。しかし1939年6月、日中戦争(日支事変)の激化に伴い穂積医師は本国に呼び戻されることとなり、同月、ブラジルにて拓殖医をしていた田中秀穂氏が来植、交代した。
1945年8月の敗戦後、田中秀穂氏は診療所を買取り個人経営を行っていた。
ラ・コルメナに公設の診療所ができるのは1966年ごろ、入植30周年記念事業の一環としてである。それまではこの診療所が唯一の医療機関であった。
現在、診療所であった土地は半分に分割され、日系人及びドイツ系パラグアイ人の個人宅として利用されている。前者は建物を取り壊し新築したが、後者は大規模な改装に留めたため、施設の一部に当時の名残を見出すことができる。
備考:
(※)医療器具、薬品の無税通関について
▲パラグアイを歩いた日本人-石井道輝遺稿集-P.44下段より。当該大統領令全文訳文の記載があり、2段落目に日付(1937年1月)の記載がある。